君の井酒造は昔の北国街道新井宿の街道沿いに位置しています。
北国街道は、北陸方面の大名の参勤交代の通路であり、また、佐渡で大量に産出する金を江戸へ運ぶ輸送路として、さらに、穀倉地帯の米穀、今町港(上越市)からの塩、海産物、その他の物資の運搬通路として重要な街道でした。
新井は豪雪地として名高く、降雪量10メートル以上にもなり、冬の新井は苦難を窮めたようです。
しかし、「豪雪の地」ゆえに、新井は、冬は天然の冷蔵庫となり、また妙高山麓に源を発する矢代川の伏流水など、豊富な地下水に恵まれ、酒造りに最適な環境となります。
その雪の恵みを頂き、今も君の井酒造は育まれています。
創業年について新井は昔から火災が多く、特に明治に入ってからの大火は町を灰にした大変なものであったようで、過去の記録が消失しており、当社に残る記録として、当時の高田藩榊原藩主の酒造り128石の許可証があり、そこに天保13年と記されていることから、これを創業年(西暦1842年)としています。
「君の井」の名前の由来についても、はっきりとした記録は残っていません。ただ、明治の始めに、由来について推測することができる出来事がありました。
1842年頃は江戸時代の終わり頃で、明治時代に入り当蔵の隣にあります「東本願寺別院」に明治天皇が来られた記録が残っています。その際、天皇にお酒を献上したことから「君主に献上した酒」として「君」の文字が使用され、「井」の文字については、全国に「〜井」という銘柄が多いように、「良質な水が湧き出る井戸」が由来となっています。
当時は等級として、上位から「君の井」「桜誉」「金華山」のネーミングで販売、また、焼酎やみりんの製造販売もしていました。
当蔵は、昭和26年に社名を「君の井酒造株式会社」に変更するまで、「田中酒舗」として営業、屋号を「田中屋」「酒田中」と呼ばれ、代々「大五郎」を襲名してまいりました。
昭和初期の二代目「田中屋大五郎」は、先見の明と積極的な行動をとり、昭和3年、いち早く琺瑯(ほうろう)タンクを導入し、また、75%精米、つき粉(石粉)を使用しても65〜60%程度という性能だった当時の横型精米機を「品質を高めるためにはまず高精米を」と、新型の縦型精米機を購入して高精米を実現しました。
また、昭和4年には、当時としては珍しい鉄筋コンクリートの酒蔵を建設、品質の向上を目指しました。その結果、品評会では数々の受賞を果たし、昭和13年日本醸造協会主催の全国酒類品評会に於いて「今回のみならず、既往の品評会でも連続の入賞につき名誉賞を授与」※1されました。
現在の仕込み蔵は、篠田次郎氏設計の新工場を昭和42年に建設し、安全性、作業効率、空調の合理性、品質の管理等、当時最新の設備に、また、平成4年には精米機も完全コンピューター制御にし、近年では瓶詰工場建て直し、フィラー、ボトルクーラー、パレタイザーを導入、さらには、最新の洗瓶機を導入、新型ボイラー入れ替えをするなど先人の志を継承し「惜しみなく手をかけた酒つくり」をモットーに、特に「山廃造り」にこだわり研究を重ね、今なお、品質の向上を目指したゆまぬ努力を続けています。
1896年、君の井酒造3代目の田中諌治の二男として誕生。 田中屋酒舗(現在の君の井酒造)創業から54年が経とうしている 最中に生まれる。 君の井酒造の創業は1842年で、当時は酒造米高 128石であった。
1927年に、新潟県酒を代表とする平沢順次郎(朝日酒造)、 吉沢勇次郎(新潟銘醸)、渡辺定治(渡辺商店)、そして 当蔵の田中大五郎らが、品質向上のために当時としては異例だったが 全国に先駆けて酒造に初めての「琺瑯タンク」を導入した。 なお、田中大五郎らはそのために、株式会社灘琺瑯タンク製作所を 設立している。
このきっかけになったのは、その2年ほど前に起きた全国的な「腐造事件」が起点となっており、 君の井酒造では田中大五郎が特に 酒造界のためにも、品質安全、安定した酒質向上を目指さねばならないとの 使命感から、琺瑯タンクの導入以外にないと考えた。 当時では、異論を唱える者もあったようだが、 その後の近代清酒製造の先鞭をつけたことは、周知の事実である。
これに呼応するかのように、1930年に全国でも県が所有する 醸造試験場としては唯一の「新潟県醸造試験場」が設立され、 この醸造方法が全国的に普及していく起点になった。 その後、早くも結果が出始め、1932年、1934年には 1930年から君の井酒造で先んじて使用した活性炭素による酒質レベルの向上も あいまって、第十三回、第十四回全国酒類品評会において全国第一位の栄誉を 獲得した。君の井酒造では第十三回から優等賞を連続受賞し、第十六回では 名誉賞という快挙を成し遂げた。
ちなみに、第十三回全国酒類品評会では、新潟県県産の清酒の多くが 入賞したことから、新潟県の酒質水準を高めた大功労者とも 言われるようになった。
吟醸酒を語るには欠かせない、いや新潟銘酒の父と呼ばれる田中哲郎は、 昭和28年、君の井酒造、石本酒造、朝日酒造、青木酒造、八海醸造などの 新潟名醸蔵16社が集まった「研醸会」を立ち上げ指導し、 新潟県酒の酒質向上に全力を注いだ人物であり、酒造業界では その名を知らない人はいない。
田中哲郎は高専を卒業後、君の井酒造にて、酒造りを徹底的に学んだ。 蔵で修行中、田中大五郎から近代清酒技術の革命と言われている 「琺瑯タンクによる仕込法」「竪型精米機の使用法」を教わり、 その後の田中哲郎の醸造人生に多大な影響をもたらした。
酒造りに開眼した田中哲郎は、新潟県醸造試験場の商工技手に任官、 そして名古屋税務監督局鑑定部などの技術官を歴任した後、 吟醸酒造りに命をかけ、新潟県酒のために先述の「研醸会」を立ち上げた。 研醸会では、杜氏たちに清酒技術を厳しく徹底的に指導した。 米の精米から蒸し米、麹造り、もろみづくり、そして絞りまで 清酒技術をある意味理屈で、もう一方では”体”で覚えさせたという。
その後、この会に属している石本酒造から、一躍一世風靡した酒 「越乃寒梅」が誕生した。もちろんこの酒は、この田中哲郎の功績による ところが大きく、まさに田中の目指す清酒が全国に認められた瞬間だった。
田中大五郎は、その人生を新潟県酒の酒質向上と拡売に全力を注いだ。 数ある中で、一番の功績は、朝日酒造「平沢興之助氏」らと日本では 新潟しかない県の醸造試験場設立に参画。もちろん「新潟清酒の父となる 田中哲郎」「近代清酒の父である岸五郎」そして新潟清酒の雄 「朝日酒造」らと共に新潟県酒の酒質向上に多大なる貢献をした。
日本で初の琺瑯タンクの導入に始まり、竪型式精米機による酒質向上、 そして君の井酒造の代名詞となっている「山廃仕込の商品化」と 数々の銘酒を誕生させ、君の井酒造のみならず新潟県酒の飛躍的向上に 貢献した。
その後も大五郎の遺志を継ぎ、現在君の井酒造では、 醸造界では最新の「篠田次郎氏設計の新工場」を昭和42年11月に建設し、 1992年にはコンピューター制御の精米機をいち早く導入し、 現在でも品質安定のため、酒質向上のため、 技術革新をさらに追求している。
<田中大五郎の略歴>
「新潟県酒造協会」昭和23年4月5日創立 代表 田中大五郎
「新潟県酒造工業協同組合」昭和23年11月15日設立 設立発起人総代 田中大五郎
「新潟県酒類卸協同組合」昭和24年6月末発足 田中大五郎が初代理事長
「新潟県卸酒販組合が発足(初代理事長 田中大五郎)
参考文献(一部引用)
新潟酒販株式会社五十年史
新潟酒造史
朝日酒造70年史
幻の酒造りに燃えた男